議会と首長の二元代表制度はやめよう―究極の「世直し方法」を探る(その1)


(開かれた議会シンポジウムでの発言ビデオ)
   

 議会と首長の二元代表制度は即刻やめて、比例代表制選挙によって選出した地方議員による議会を中心とした、地方行政運営にするべきだと私は考えます。

議会と首長(地方行政部局も含めて)との二元代表制は、民意を反映した行政運営を目指す観点からすると、壊滅的になる必然性があるにもかかわらず、そのことがまったく国民に理解されていなく、メディアも取り上げない…ここに日本の悲劇がある。

 強大な権力を持った首長と地方行政組織とが、ほぼ一体となった時、議会の持つ機能はほとんど効力をなくしてしまうでしょう。なぜならば、首長やその配下の役人たちに強大な権力を与えてしまう制度そのものに、大きな欠陥があるからです。選挙を通して少数者に強大な権力を与えることは、「市民が自分で自分の首を締める」ことになるのです。

 つまり選挙という、いかにも市民が主人公という制度を使ったとしても、市民の手で地方行政をコントロールすることには大きな困難が伴い、その暴走をくい止めることは、もはや不可能に近いのです。首長と役人の独裁体制の中にあっては、市民の政治的良心が実現されることは極めて少なく、にもかかわらず「市民が選択した首長」ということで、その正当性が与えられてしまいます。この2つのくい違いが市民を無力感と閉塞感に陥れるのです。「すべては市民の自業自得とされる」ことが私にはつらい。

 首長に対する議会の対抗措置として最大のものは「予算の承認・拒否権」ですが、そもそも、これは余りにも消極的な行為でしかない。首長部局が作成した予算案に対して単に異議を唱える存在とされ、つまり、出来上がった成案に対して「反対意見をつけるかつけないか」というところに集約されてしまう。最終的に予算原案に対しての賛否だけが議会に問われることとなる。だから、次のような打算的非難にさらされる。

 「何でも反対する野党」「反対のための反対だ」「反対のために政治的空白は許されない」 「責任政党としては、予算執行の滞りがあってはいけない」…ついには「文句があるなら早く対案を出して欲しい。それとも対策を出せないほど、野党内の分裂状況はひどいのですか」

 地方議会にあっては野党勢力に対して「対案」を出せと迫られることは少ないでしょうが、つまりはもうそれほどまでに、首長部局が上位にあるということです。そのような状況下では「反対すること」そのものが絶対悪的なイメージにすり替えられてしまうのです。なぜこのように議会で「反対すること」が過小評価されてしまうのか?それは政策や予算案作成の段階で、すでに除外されている議会の消極的位置づけによるところが大きい。

 議会は原案に対して「反対」するだけの無責任も許される機関なのだという誤解が市民に行きわたっている。だから市民は「二大政党制」をこよなく支持するようになる。大政党による反対だけは認めて、小政党による反対は切り捨てようとしているのです。反対か賛成かの態度表明だけの機能に落しめられた地方議会と首長による「二元統治論」には、根本的な不備があると私は考えています。

 西・北欧諸国がなぜ議会中心の執行委員会制などを採用しているのか?首長の最大級である大統領制を採用しているアメリカでも、地方自治体では「シティマネージャー制」を採って議会の地方行政に対する介入度を高めているのはなぜなのか?私はこの辺にカギがあると思っています。

 「選挙の争点は何か」などとよくいわれるが、これも有権者や政治の状況を無視したメディア特有のだましのテクニックです。争点があるなら公設討論会や世論調査、最終的には住民投票で決着をつけることも必要かもしれないが、「首長選挙に争点を持ち出して有権者の審判をあおぐ」という手法は明らかに間違っています。行政はたくさんの種類の仕事をしているわけで、個別の問題を考えずに「その時の争点」に集約して選挙で民意を問うという構造そのものに無理があるのです。

 首長選挙では、今まで地縁・血縁で仲よく交流をしていた地域の人々が、2つの派に別れて、どちらが勝っても大きなしこりを残すような結果となり、地域社会の崩壊が始まります。首長という強大な許認可権限を持つ人を選択するからこそ、人々は仲たがいをするのです。今まで検証してきたように、所詮は民意が正確に反映されない選挙である上に、今まで築いてきた絆が壊されてしまうのだから、こんな大きな損失はないでしょう。

 しかも「迷惑施設を受け入れて国から補助金をもらう」派と「迷惑施設を拒否して補助金をもらえない」派の対立ぐらいむなしいものはないでしょうね。先日の山口県岩国市長選挙はまさにこの例だった。青森県六ヶ所村の村長選挙でも、かつて同じことがくり返されてきました。そもそも核燃料再処理工場の是非を問うには、立地される村だけでなく、日本全体で大きな議論をして政策を決定しなければいけないのに、そんなことはまったくなされていない。

 選挙に当選するためには、メディアが取り上げていない問題を深く追求すると得てして有権者から誤解されたり、「理想主義的すぎる」「きれいごとを言いすぎる」「政治はもっとどろくさいものだ」「石油がなくなったり、アメリカから嫌われたらどうする」…そんな思惑で投票に躊躇してしまう有権者をたくさん生み出してしまうので、マス・メディアが取り上げない問題については「さわらぬ神にたたりなし」なのです。深入りしたら得票を減らすのは一般的傾向といえる。だから首長選挙だけでなく、個人を選ぶすべての選挙は、有権者にとって無意味なのです。

 個性のない、最大公約数的なあたりまえの内容ばかりで、いいことだらけの立候補者の政策を頼りに、国民は投票をしなければいけないわけです。このように立候補者の政策の差異を失わせるのは、個人を選択する現行選挙制度の構造的欠陥なのです。

 だからこそ西・北欧諸国では、国会だけでなく地方議会選挙までも、個人を選ぶのではなく、政党を選ぶ比例代表制であるし、首長選挙も実施しておらず、議会中心に地方行政を管理運営しているのです。個人を選ぶことと最良の政策を選ぶことには、余りにも大きな落差があることを国民のみなさんに知ってほしいのです。

 そこで、私が抱く理想の選挙制度は下に示した通りです。ぜひ参考にしてみてください。

定数50%ずつの
男女別枠比例代表制選挙
人類未踏の実施で世界を救おう!!
民意を反映した女性議員も激増!
北欧のように国会・地方議員も比例代表制選挙とし首長選挙を廃止。
代わりに地方議員による執行委員会(市長職)制度とする。
これに賛同する立候補者を当選させる世直しから始めよう!

とりあえずの結論

 「なるべく地方のことは地方に任せるべき」であるならば、私たちの代表を選ぶ選挙のやり方までも地方の人々の自主性に任せるべきです。そのためには、全国一律の選挙制度や首長制を定めている公職選挙法や地方自治法も改正する。なぜならば、法律で、地方の選挙制度を拘束してはいけないからです。

・・・とりあえずは、このようなことを政党に主張してもらうような働きかけに私たちは必死になって取り組むべきでしょう。そして民意を反映した政治を実現する方法として、現状では唯一、これしかないと思われる「選挙制度修正投票」を最後に紹介します。

 「首長選」や「1人区」の選挙では二大政党がらみの投票を半ば強いられるので、その埋め合わせとして「2人区」以上の選挙区では、比例代表制に好意的な平和希求政党に優先的に投票する。このような投票方法を全国民が採用すれば、今よりも民意が反映した納得のいく社会運営がなされる可能性があるのではないかと私は考えます。

選挙制度修正投票推進・全国会議 2008・5・3
田口 房雄